天安からアンニョン

日々の思いや韓流情報などをエッセイ風に書きます。韓国からの発信です。

幸せの秘法

朝鮮日報にまたまたすばらしい記事がありました。
グーグルで瞑想のコーチをしている瞑想の専門家チャド・モン・タンの講演の内容です。
「幸せの秘法」。ご一読のほど。
以下、すべて朝鮮日報からの引用です。

 '人文学のアゴラ : どう生きるか' で、チャド・モン・タン(Chade Meng Tan)、グーグルの瞑想の専門家が「幸せについて」というテーマでした講演内容を要約する。

私の名前はモンだ。グーグルではエンジニアであり、'愉快で有能な役員(jolly good fellow)'という肩書きを持っている。グーグルの入社初期の肩書きを'グーグルフェロー(エンジニアの中で最高職級)'となってたので、冗談で"なぜ?jolly good fellowとすればもっといいんじゃない"って言ったら、みんなクスクス笑った。面白いと思って使用し始め今までずっと使っている。

グーグルには「20%の時間」といって勤務時間中の20%はやりたいことをすることができる。私はその時間を職員の感情知能(EQ)を啓発するプログラムの開発に投資した。コースの名前は「君の内面を検索せよ」だったが、グーグルで最も人気のあるコースになった。その後、本も書き、ダライ・ラマとジミー・カーター元米大統領が推薦書を書いてくれた。これが良い本という証拠だ。ダライラマやカーターのような方が、どうして同時に誤った判断をすることができようか?(笑)

       1109Mon_Ricard.png  (写真) モン(左)とマチウ・リカール僧侶。

この仕事をしていて出会った最も有名な人はマチウ・リカール和尚だ。世界で一番幸せな人として知られた方だ。もともと1972年にフランスでノーベル賞受賞者による指導の下、微生物学の博士号を取った学者であった。ところが、チベットに行って修道僧になり、40年間冥想をしながら暮らしてきた。

ダライ・ラマが、瞑想が脳にいかなる影響を及ぼすのかに関心をもったとき、マチウ・リカールの脳波を測定してみようと語り、実際に脳MRIを撮ってみたところ、幸せや肯定的情緒を表すとして知られている左前頭葉が非常に活発だった。正直、他のチベットの修道僧たちも似たような数値だったが、マチウ・リカールが最初の実験対象であることから世界初で最も幸せな人と公認された。

・幸せとは、充満した存在の感覚

マチウ・リカールは幸福とは、健康な心から湧き出る充満した感じだと話す。これは単純な快感や楽しさ、またははかない瞬間的感情や気持ちとは異なる最適の存在状態ということだ。それには、情緒的な均衡状態に到達しなければならないが、まずは煩悩から自由でなければならない。体を考えて見れば病気がない時苦痛がなく、煩悩から自由である。気持ちもよくなる。心も同じだ。心は、怒り、嫉妬、貪欲、恐怖心、恐れなどの煩悩から自由な時に幸せを経験する。

それなら,それをどのようにして得ることができるのか。EQにかかっている。寓話を一つ聞いてみよう。一人の男が馬に乗って行く。パカパカ、パカパカ。誰かが「どこに行きますか?」と聞くと「わからない。なぜ私に聞くのか?馬に聞け」と答えた。話にもならないが、実際毎日経験するコメディだ。馬に乗った人はまさに考える心であり、馬は感性的な心を意味する。重要なのは心が煩悩に満ちていても、治めることはできるという点である。そんな能力がEQだ。

EQとは、科学的には自分と他人の気持ちや感情を理解し、それらの間を区分しその情報を自分の考えおよび行動の指針として利用できる能力と定義できるが、もっといい定義がある。情緒的知能に技術を合わせた状態ということだ。技術という点が重要であるが、技術は練習可能なものであり、EQも練習することができ、結局、幸福も訓練で得られるという話だ。

・EQも訓練で発展させることができる

グーグルではEQを訓練する。30~50時間程やればOK。脳は神経可塑性(という性質を持っている。考え行動し注意を傾ければ機能と構造が変わる。注意力訓練を通じて脳を変化させ、脳が幸せを求めるように訓練するもの。

第一に、注意力訓練はとても静かで明瞭な心の状態を自由に創出できる能力を育てることだ。それで希望するたびに心を落ち着かせる。特に危機状況で心を調節して落ち着くようにする。そうするとリーダーシップが備わる。例えば、危機状態に陥ったとき、みんなが恐怖に震えてどうすればいいか分からない状況で、たった一人だけ落ち着き明瞭さを維持することができるならば、全てが彼をリーダーとして支持するだろう。

「死の収容所」を書いた精神科医のヴィクトール・フランクルは、刺激と反応の間に空間があり、この空間を通じて反応を選択する自由と力が生じると説明した。空間を作ることができ、選択する自由と力を育てるなら、刺激に対する反応を統制することができる。

より強力な効果は、幸せに影響を及ぼすということだ。心が静かになり穏やかになれば幸福感が自然に発生する。瞑想の専門家であるアラン・ウォレスに聞いてみると、幸せが心の本来の基本状態であり、心を静かに落ち着かせれば初期の基本状態である幸福が訪れるものということ。
それではどうやって訓練するのか。簡単だ。心を満たす冥想だ。注意力を注入するわけだ。判断を排除した状態で意識的に今この瞬間に集中する。例えば、10秒の間に自分が息を吸って吐き出す過程だけに注意を払う。注意力が他の所に逃げたら再び呼吸を戻す。

体力鍛錬に置き換えてみるとダンベル運動を継続してやるのと同じ。最初は分からないが、継続していくと筋肉が生じて力が生じる。重い物を持ち上げて男友達の代わりにゴミを出して捨てることができる。またエネルギーが沸き、病気休暇を出す日が減って働ける時間が増え、生産性が高まって成功に一歩近づく。ただダンベルを上げたり下げたりしただけなのに、健康そして情緒的な安定さらに幸せへと連結する。注意力を取り戻す訓練もやはり同じだ。心という筋肉を育てることだ。心の筋肉が充満すればいつでも心を静かにすることができる。

・自分を観察せよ

これは第1段階に過ぎない。EQを育てる第2段階は、自己に対する知識だ。落ち着き明瞭な心を持てば、これを具体的に認識することができる。感情を動かす過程を高解像度で見られるようになり、煩悩を克服することができる。私たちは普通自分の感情がそのまま自分自身だと思う。腹が立つ、幸せだ、悲しいとき、怒り、幸せ、悲しみが存在そのものだと思ってしまう。感情と「私」の間に分離がない。したがってどうすることもできない。

ところで感情に対する認識が非常に鮮明になると、若干変化が生じる。認識する方法が存在的なことから経験的なものに変わる。「私は腹が立つ」ではなく、「私は体の中で怒りを経験している」と。ここに深奥な差がある。感情は我々の本質ではなく、私たちが感じているに過ぎず、単に生理的な現象に過ぎないという事実に目をつけることだ。

空を見ると、雲がある。ところで雲は空ではない。静かな心を持つなら、私の考えが私ではなくて、私は私の考えではないという事実を悟る。憂鬱なとき、私の考えが私でないと気づいたら態度が変わる。アイデンティティがそうだ。アイデンティティは苦痛の源泉だ。私は成功した人だ、失敗した人だ、人々は私を好み、嫌い…。このようなアイデンティティは問題と苦痛をもたらす。アイデンティティは全面的に心が作り出したのだ。心が作り出すことができなければ存在することができない。

ところで訓練が深まれば、心が静まってそれ以上アイデンティティを作り出す必要性を感じなくなる。アイデンティティを作り出さなければ自分自身を感知することができる。そして観察者になる。観察者にはアイデンティティがない。ただ経験を観察するだけだ。そしてその瞬間、悟りがある。

・精神的習慣を作れ

第3段階は、有用な精神的習慣を作ることだ。一つは親切だ。私は人を見る時初めて生ずる心が「この人が幸せならいいな」だ。なぜ?。ただ習慣である。そんな習慣を身につける時どんな事が生ずるか。すべてが変わる。習慣は性格になり、性格が人格になり、人格が自分となるからだ。親切という精神的な習慣を持つ時、親切な人格を持った人になるのだ。習慣はもちろん、訓練可能である。

「どのように?」たびたびすればよい。30回、50回繰り返せば、習慣になってそれがあなた自身になる。10秒間、皆様がこの部屋にいる誰でも二人を選んで見もせずにそのまま幸せになることを祈ってみてください。「感じるのか?」喜びがわいてくるはずだ。ほかの人の幸せを祈ると自分も幸せになるのだ。

それでは第二に、これをどのように推進できるのか? 3ヵ月前、講義をしながら聴衆に宿題を与えた。会社行って毎時間10秒間、ある二人を選んで幸せを祈ってくれと。言葉で直接言ったら照れくさいから思いだけ。そうしたら次の日メールが来た。聴衆の一人が実際にそのようにしたら、あれほど嫌いだった会社が好きになったと。親切は慈悲につながる。親切さが、他の人の幸せを祈うものなら、慈悲は苦痛から脱することを祈ってあげるものだ。慈悲は、幸せへと導く近道だ。

出典:朝鮮日報 http://premium.chosun.com/site/data/html_dir/2014/11/07/2014110703198.html?csmain

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配管工

将来においてどんな職業がなくなり、どんな職業が有望なのか。
これは、すべての人にとっての関心事だと思います。
ロボットが発達して、あらゆる分野に顔を出すようになってくることははっきりしてますが、
どんな職業が消え、どんな職業が有望なのでしょうか。ご参考まで。


♦ここから引用♦

去年の夏、マスコミ界の先輩何人かと食事をした。「ロボットジャーナリズム」が話題になった。
未来においては、資料さえ与えてやれば、人工知能を持つロボットが記事を書く時代が来るということだ。
すでに今年3月LAタイムズが、ロボットが作成した地震速報をインターネットに掲載した。
一時嘱望されていた記者という職業は消えるかも知れないという懸念が出された。
実際、ウォールストリートジャーナル(WSJ)は '今後没落する10大職種'の第4位に新聞記者を上げた。

ところで参加者の一人が、今は安定的職業と見られる教師や医師もパソコンとロボットが発展すれば消えかねないとした。
「国連未来報告書2040」では、2030年に消える十のことを予測した。
その中には公教育と教室、医師と病院の診療が入っている。
伝統的な教室の授業の90%がオンライン無料教育に変わるという見通しだ。
遠隔診療やロボット手術が発達すると、医師と会う必要がなくなるかもしれない。

オックスフォード大学のカール・ベネディクト・プレイ教授らは、昨年発表した「雇用の未来」と題した報告書で
"自動化と技術発展で、20年以内に現在の職業の47%が失われる可能性が大きい"と主張した。
今、幼稚園児が就職戦線に参入する時代になれば、現在ある職業の半分がなくなるという話だ。
プレイ教授は未来には機械が代替できない感性が必要な芸術家、音楽・美術治療師、恋愛相談士などが生き残るだろうとした。

マイケル・ブルームバーグ前ニューヨーク市長が数日前、ある会合で
"学業成績がそれほど優れていないなら、配管工が最高の職業となりうる"と語ったという。
理由がふるっている。
配管工は、米国労働者の平均賃金より16%ほど多く稼いでいる。
年間、大学の学費として5万~6万ドルを使う代わりに早く仕事を始めれば、高所得を得ながらも学費はそのまま自分の手元に残る。
配管工などの専門技術職は代替が難しくこれからもずっと高い年俸をもらえるというわけだ。

今後、配管工の代わりをするロボットが開発された場合、配管工も消える職業の第1位にランクされるかもしれない。
1940年代、最初のコンピューター「エニアック」は、大部屋一部屋を満たしたが、
我々は今、それよりはるかに性能が優れたコンピュータ、スマートフォンを手に持って歩いている。
ブルームバーグの言葉には、他人が羨望する大学にだけ執着せず、様々な可能性を探すべしという意味が盛り込まれているのだろう。
しかし、子供たちが、不確かな未来よりは今順調な職業に就いてほしいと願うのが親の正直な気持ちだ。
急速な社会変化の中にあって、これからどのような職業が有望かを占うのは難しい。
なんとも、職業に関する悩みは永遠になくなることはないもののようだ。

朝鮮日報 http://premium.chosun.com/site/data/html_dir/2014/11/14/2014111403528.html?csmain

♦ここまで引用♦


どんな職業が淘汰され、どんな職業が生き残り、また、あらたに生まれるのか。
これは誰しもが関心のあるテーマだと思います。
医者も教育者もだんだん淘汰される部類に属しているとなると、
わたしも、なんとなく心落ち着きません。
(とはいってもあと数年で定年なんで、そう悩まなくてもいいのかな^^)

左官屋さんについての言及が上ではありませんが、
左官屋さんというのも、けっこう長生き職業じゃないのかな。
左官屋さんとか配管工。
こういう「手に職」の職業は、どんな時代にも通用するのかもしれません。



さようなら原発米沢のつどい(第19回)

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さようなら原発米沢のつどい(第19回)が11月29日(土)の・14:00から
「米沢市すこやかセンター」にて開かれま す。
講師に福島大学名誉教授・前副学長の清水修二さんをお迎えします。

清水修二さんは、
影響評価に反原発的なバイアスをかけるのは、被害者の心情に寄り添うものではなく、
逆に被害者の反発を買って反原発運動の信用を損なうばかりで益するところがないとおっしゃられます。
これはちょっと衝撃的な考え方ですね。
反原発的な態度で臨むのが逆の結果(反原発運動の信用を失う)を招くことになるということ。
反原発、反原発と叫ぶことだけが善ではないということですよね。
しかと心にとどめるべき考え方だと思いました。

米沢の皆さん、
寒いなかですが、土曜日、すこやかセンターのほうへ足を運んでいただけるとありがたいです。

♦ここから引用♦

【さようなら原発 米沢のつどい(第19回)】
  講演会「福島原発災害 -被害の質と量-」
  講師: 清水修二さん(福島大学名誉教授・前副学長)
  
  日時: 11月29日(土)14:00~16:00...
  会場: 米沢市すこやかセンター(米沢市西大通1丁目5-60)
  
講師の清水さんは、福島大学で教鞭を取りはじめた1980年から、
ながきにわたって財政学の立場から原発問題にとりくんでこられました。
そして、2011年3月の東電福島第一原発の大事故。
福島大学副学長として、大学の復旧と被災地支援の先頭に立たれました。
「放射能の影響評価に原発の是非論を絡ませるべきではない。」 清水さんは主張します。
影響評価に反原発的なバイアスをかけるのは、被害者の心情に寄り添う所以ではなく、
逆に被害者の反発を買って反原発運動の信用を損なうばかりで、益するところがないと。
被害の全体像をつかむ視点について語っていただきます。
どなたさまも、自由にご来場ください。
 

【次回(第20回)の予定】
 影法師「脱原発・平和コンサート」(仮称)
日時:2015年1月24日(土)14:00~
会場未定 

出典:さようなら原発 米沢 https://ja-jp.facebook.com/sayonara.gempatsu.yonezawa               

♦ここまで引用♦



上杉鷹山(11)

鷹山について書くシリーズです。今回はその11回目。
11月5日ブログ上杉鷹山(10) の続きです。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○  

  起工後20年たち、両端から掘り進められていたトンネルは貫通しました。上下の違いは4フィートであり、わが国ではトランシットやセオドライとの機械もまだ知られていない時代にあって、奇跡的なほど正確な計算でした。
 荒地には花が咲き出し、米沢領は実り豊かな沃地に変わりました。東北地方でも米沢だけは、それ以来今日まで水不足に見舞われたことがありません。
 藩主は、民の幸福のための配慮に手抜かりのないように気をつけました。良種の馬を導入し、池や川にはコイやウナギを飼い、他国から鉱夫や織工を呼び、商業上の支障はすべて取り除き、領内にある資源はことごとくあらゆる手を尽くして開発に努めました。これを併せて、民のなかの怠け者を絶滅し、役にたつ働き者に変えました。それにより、かつては全国でもっとも貧しい土地であったところが、鷹山の晩年には模範的な物産地に化し、今もそれが継続しているほどの変化を招きました。
                             ここまで上杉鷹山(11)。『代表的日本人』(内村鑑三)より



「生」 _ 学生エッセイ45

韓国の日本語学科の学生らが書いた文章を紹介するコーナーです。
今回はその45回目で、男子学生IDHさんの作品です。
(違和感のある部分は、ブログ管理者が適当に直してます。)


「生」

日本語を習い勉強するなかで一番記憶に残っている単語は「生」です。意味も多いし訓読みもわたしが知っている単語の中で一番多いので忘れない単語です。日本語の実力がまだまだだったころに、漫画や小説を読む時、ほかの音で読むべきだった漢字をすべて一つの訓読みで読んだこともありました。日本語をどんどん知っていったときもこの「生」の意味や訓読みは、わたしの頭の中で完全にごちゃごちゃでした。原語の小説とか漫画を読むときには、適当に言葉を作って読んでいました。例えば子供が「生まれた」を、こどもが「生(い)かせた」と読んだり、「生(なま)ビール」を「生え(はえ)ビール」と読んだこともありました。いまはあまりこんがらがらないようにいっぱい練習していますが、いまでも曖昧な文章には迷う時があります。


일본어를 배우고 공부하면서 제일 기억에 남는 단어는 생입니다. 뜻도 여러가지로 쓰이고, 훈독도 제가 알고 있는 단어들 중 제일 많아 잊혀지지 않는 단어입니다. 일본어 실력이 초급이었던 시절에 만화책이나 소설을 읽을 때 그때그때 달리 읽어야 했던 한자를 전부 하나의 훈독으로 읽었던 적도 있습니다. 일본어를 점점 알아가던 시기에도 이 날 생자의 뜻과 훈독은 제 머리 속에서 완전히 뒤죽박죽 수준이었습니다. 원어 소설이나 만화책을 읽을 때는 거의 말을 만들다 시피 하여 읽었었습니다. 예를 들면 ‘아이를 낳았다(우마레타)’를 ‘아이를 살렸다(이카세타)’라고 읽는 다던가, 생맥주(나마비루)를 하에비루라고 읽기도 했습니다. 지금은 거의 헷갈리지 않을 정도로 많이 연습하고 있습니다만, 아직도 애매한 문장에서는 버벅거릴 때가 있습니다。

ピーター・ドラッカー "鄭周永会長は私が主張した企業家精神の劇的な事例"

ピーター・ドラッカー教授と鄭周永(ヂョン・ヂュヨン 元現代)会長の出会いについての朝鮮日報の記者の文章です。記者(筆者)は、ドラッカー教授の先見の明に感動しています。

♦ここから引用♦
ヒョンデの鄭会長はこの世の中の誰よりも忙しい人だったが、広い分野にわたって人々と交流するのに時間を割いた。特に世界的な碩学たちと会うのにはいくら仕事が忙しくても時間を作った。その中でも世界の碩学とされるピーター・ドラッカー教授と鄭会長との出会いは、彼の驚くべき慧眼と洞察力、そして鄭会長との率直な対話のため、特に記憶に生々しい。

ドラッカー教授は、『断絶の時代』、『経済人の終末』、『産業人の未来』、『新しい社会』、『経営の実際』など数多くの著書があり韓国国内でもつとに有名。特に理論と現実の間の乖離を鋭く分析することにより、経営学の泰斗という世界的な賛辞とともに経済社会分野の未来学者として名望の高いドラッカー教授が韓国を訪れたのは1977年10月だった。

ピーター・ドラッカー教授の韓国での日程は、その名声にふさわしくわずかの隙もなくびっしり詰まっていた。それだけ彼に会いたい人が多かったということだ。連日の講演会やマスコミのインタビューはもとより、彼から知恵を得ようとする国内企業家たちの面談要請も相次いだ。そのうちの何人が実際にドラッカー教授と会うことができたか今となっては記憶にないが、鄭周永(ヂョン・ヂュヨン)会長は、むしろドラッカー教授みずからが一番会いたいと考えていた韓国人の一人だった。

ドラッカー教授は、1977年10月12日、短い訪韓期間中に時間を作って鄭周永会長を訪ねてきた。1915年生まれの鄭周永会長は、当時62歳、還暦を迎えた年であり、ドラッカー教授は1909年生まれで70歳を目前に控えた歳だった。還暦を過ぎた韓国財界の巨木と世界経営学界の巨木がまるで長年の友人のように親しげに握手を交わし席に座った時間は、午後2時ごろ。晴れわたった透明な秋の空が窓の外に広がる中、世界的な碩学と普通学校出身の傑出した企業家の出会いは、そのように始まった。

"世界経営学の泰斗である教授と、このようにお会いできて本当に光栄です。"

鄭会長が先に挨拶をした。

"あ、いえ…。"

二人はいずれも満面に笑みを浮かべたまま、わけ隔てなく対話を交わした。

二人の話は、通訳をする筆者にも胸ときめくものだった。鄭会長も達弁であったが、ドラッカー教授もそれに負けないくらい口達者だった。ただ差があったとすれば、鄭会長の言葉が非常に速い半面、ドラッカー教授は彼に比べて少し遅い方だった。

"今、鄭会長が私を経営学の泰斗と呼んでくださりましたが、実に過分なお言葉です。むしろ鄭会長とお会いでき、恥ずかしい限りです。まず私は、第2次世界大戦以降、世界各国の経済成長モデルを分析し、その未来を展望しましたが、韓国のように長い植民地被支配と、第2次大戦および6・25(ユギオ、朝鮮戦争)という二つの大きな戦争を戦い、極度の貧困と劣悪な成長環境下でも急成長した独特なモデルについては、十分に知らなかったことが恥ずかしいです。また、このような戦後の荒廃した中で「漢江の奇跡」を成し遂げた韓国経済を主導した鄭周永会長のような非常に独特で偉大な企業経営事例についても、やはり研究をしていませんでした。私がこれを恥ずかしく思う理由は、まさに鄭会長が発揮されている企業家精神が私が主唱して教えてきた核心なわけですが、これを実践した最も劇的な鄭会長の事例についてよく知らなかったという点です。"

"そのように言っていただき、むしろ私のほうこそ恥ずかしいです。ただ私がしたことといえば、後先省みずただ懸命に企業をひっぱってきたことだけです。それが韓国経済の発展に多少なりとも役立ったとお伺いし、本当にありがたい次第です。しかしドラッカー教授は、既に経営人だけでなく一般の方々も広く知っているほど有名な経営学の泰斗じゃないですか。たとえ事業をする人や経営学を勉強する人でなくても、未来について少しでも関心がある人ならば、全世界の誰もが教授の話に耳を傾けます。私はただ先生のその驚くべき洞察力と未来予測に驚くだけです。"

当時既に京釜(キョンブ)高速道路建設の主役であり、かつ中東進出、現代造船の設立、韓国初の独自自動車モデルの開発などで国内外に広く知られている鄭周永会長と、世界経済の懸案や流れに卓見を持つドラッカー教授との出会いは、それだけでも格別なものだった。ドラッカー教授の話が続く。

"ハハハ、身に余るお言葉です。ここで私、正直に申しますと、私が鄭会長様ほどお金を稼ぐことができたなら、たぶん、経営学教授などしてないですぐ事業をしたはずです。いまもってまだ私が経営学教授に止まっているのは、実際にその度胸および自信がなかったからです。私は一介の理論家であるだけです。私が韓国経済と鄭周永会長にお目にかかって悟りえたのは、経営は学識と頭だけでやるものではないということです。理論と頭は極めて一部分に過ぎないと思います。企業家の精神は、頭ではなく胸と気質から沸き出るもののようです。理論ではなく生まれつきの天性から出てくるという話です。鄭会長はその点で、天性を持って生まれた方です。多くの不確実性と危険要素、難関という霧におおわれた遠い未来の事業機会を鋭い四知力を持って看破し、これを強力に実践するリーダーシップと行動力を、鄭会長は理論以前に先天的にもって生まれもった方です。私は一介の理論家にすぎないです。"

同日、ドラッカー教授が言った経営理論と実践の問題は後日、本人の著書『資本主義以降の社会』でさらに言及している。彼はこの本を通じて「知識労働者」という用語を使用し、社会的に広く認められる大学教授や学者などの理論的な知識人と、実践的な知識人の違いを区別している。称賛なのか分析なのか分からないようなドラッカー教授の話が終わるやいなや、鄭会長は直ちに冗談で応酬した。

"それならドラッカー教授、私のように企業をになってみたいととおっしゃいましたが、私たち二人を合わせるたらどうなりますか? 教授の頭と私の気質が出会えば、世界的な企業が誕生するんじゃないでしょうか。"

同席した人たちの笑い声が収まるのを待って、鄭会長が多少真剣な表情で言葉をついだ。

"さっき先生が韓国経済についてまだうまく分析をしなかったとおっしゃいましたが、今回の機会に韓国のいたるところをよく見ていただき、良いご忠告をたくさんして与えてください。実は私たちは今まで前だけ見て走ってきました。後ろを振り返る余裕がなかったんです。しかし、身体をすくめたカエルがもっと遠くまで飛ぶという韓国の諺があります。今、先生のような世界的な碩学とお会いしてみると、わが韓国経済と企業の現実を今一度振り返らなければならないという思いがしてくるんです。"

"はい。韓国経済と鄭会長については、深く研究してみる考えで韓国を見て回っています。韓国は今まで私が接することができなかった非常に独特な経済成長の事例であるため、私の研究におきましてもも助けになるところ大です。"

それからドラッカー教授はしばらく沈黙した。何かもっと話したいことはあるが、言葉を大切にするように迷った末にドラッカー教授が再び口を開いた。

"事実私の目で直接確認した韓国の経済成長は本当にまぶしいほどです。その劣悪な環境を乗り越え、今日の発展を成し遂げたのは、いくら褒めてもすぎることはありません。しかし、一つの懸念もないというわけではないものと思います。その第一は、まさに韓国経済があまりにも目前の現実に重点を置いているのではないのかということです。すぐに現れる現実も重要だが、長期的な未来を準備するのもそれに劣らず重要です。そしてもう一つ申し上げますと、それはまさに韓国の労使関係です。"

7年前の1970年11月13日、清渓川(チョンゲチョン)平和市場の労働者だったヂョン・テイルの焼身自殺以降、韓国においても労働運動の炎が燃えだした。韓国の企業家たちにとって労働問題は、多くの場合、物を作って売ることそのものよりもっと厳しい課題だった。しかしドラッカー教授は、いったん話を切り出すと、自分の見解をじっくり、しかし、断固として率直に表明した。

"短い期間ではありますが私が韓国経済界を見回しますと、韓国の労使関係はほぼ従属的な情緒と理解のレベルにとどまっているようです。しかし、もう変わらなければならないと思います。労働者を経営のパートナーとして認識しなければならないという話です。労働者も企業家もいずれも厳しい状況で、今まで韓国経済をうまくリードしてきましたが、パートナーとしての労使関係を新たに確立しなければある時点で大きな問題に直面することになるかもしれない。韓国も今は、より成熟した資本主義と産業社会に進入する過程にあります。これに先立ってこの過程の試練を経た先進国の事例を参考にしなければならないと思います。"

"はい。かしこまりました。"

鄭会長としても何かもっと話したいことがあるようだったが、結局、何も言わなかった。そして、あれこれの話をしばらく続けたあと、鄭会長とドラッカー教授の出会いは終止符が結ばれた。

鄭会長とドラッカー教授が会った2年後、韓国は労使問題がきっかけとなるいわゆる「YH事件」を起爆剤として「ビルマ事件」、10・26の宮井洞の銃声につながる激変の渦に巻き込まれことになる。そしてこのような労使問題の葛藤は、その後新軍部統治下5~6年間の抑圧期を経て、1986年と1987年にいたり、また爆発的な噴出事態へとつながった。ドラッカー教授もすでに故人となったが、彼の予知力を改めて思い知らされる次第である


出典 朝鮮日報 http://premium.chosun.com/site/data/html_dir/2014/11/04/2014110401479.html?csmain

ここまで引用

おもしろい日本語 _ 学生エッセイ44

韓国の日本語学科の学生らが書いた文章を紹介するコーナーです。
今回はその44回目で、男子学生STUさんの作品です。(違和感のある部分は、ブログ管理者が適当に直してます。)


  私は漢字が好きだった。中学校からか。家で学習誌「くもん」を通して漢字の勉強をすることになった。なにかを覚えたり書いたりするのが好きで、漢字が好きになったんじゃないかと思う。そしてから高校まで漢字学習誌「くもん」をすることになり、自然に日本語の専攻を選んぶことになったようだ。
  日本語は漢字をたくさん使っているので、検定試験を受ける時とか読解をする時、これの読み方はわからなくてもおおまかにどんな意味かがわかりとても役に立った。 
  でも、日本語の勉強をしてみると漢字の本来の意味とはちがう日本語も多かった。日本ならではの漢字もあって、どんな意味なのかわからないこともあった。例えば、「情けない」を見たとき「情け」がないのか。これは心の情がないのだろうと思ったけど、意味は「哀れだ、惨めだ、嘆かわしい」の意味だった。「情け+ない」の意味ではない。ずいぶんちがう意味だ。ある基準に達しないとか足りなくてかわいそうだという意味である。またあった。「決まり悪い」。これも漢字だけで予想すれば、なにか決定するのが難しい、決定するのが悪いという意味だと思ってしまうが、辞書を引くと恥じる、恥ずかしいの意味である。
  上の二つの例以外にも「意地悪い」、「水臭い」などがある。漢字だけでは意味がわからない日本語が多くて、また同音語が多いので、日本語は難しい言語のようだ。
  こんな言葉がある。「日本語がやさしいと言う人は素人、難しいと言う人は玄人だ」。言い得て妙だ。日本語はやればやるほど難しい言葉だが、私が日本語専攻を選んだからには、ほかの人に教えるほどの実力を持ちたい。

  나는 한자를 좋아했다. 중학교 때부터 인가? 집에서 학습지인 ‘구몬’을 통해 한자 공부를 하게 되었다. 뭔가 외우고 쓰는 것이 재밌어서 한자를 좋아했던 것 같다. 그리고 고등학교 때까지 한자 학습지를 하게 되었고 그러다 자연스레 일본어과를 전공하게 된 것 같다.
  일본어는 한자를 많이 쓰고 있어서 JPT 시험을 볼 때나 독해를 할 때 이것을 읽는 법은 몰라도 무슨 뜻인지는 대충 알 수가 있어 편리했다.
  하지만 일본어 공부를 하다 보면 한자와 다른 뜻의 일본어도 많았다. 일본어 고유의 한자도 무슨 뜻인지 알 수 없을뿐더러 한자만으로 해석이 되지 않는 것도 있었다. 예를 들어 情けない를 보았을 때 아 정이 없는 것인가? 저것은 마음 정이니까라고 생각했지만 뜻은 한심하다였다.
‘정+없다’ 의 의미가 아닌 아예 다른 의미인 어떤 기준에 너무 지나치거나 모자라서 가엾고 딱하다라는 뜻이 된 것이다. 또 있었다 決まり悪い 이것도 한자로만 해석했을 때는 뭔가 결정하기가 힘들다, 결정하기가 나쁘다라는 의미일 것 같다고 예상했지만 사전을 찾아보니 쑥스럽다, 부끄럽다의 느낌인 것이다.
  위의 두 가지 예 외에도 意地悪い: 심술궂다、水臭い: 서먹서먹하다 등등이 있다. 한자로 만으로는 의미를 알 수 없는 일본어가 많고 또 동음이의어도 많기 때문에 일본어는 어려운 언어인 것 같다.
  이런 말이 있다. 일본어를 쉽다고 하는 사람은 초급자이고 일본어를 어렵다고 하는 사람들은 고급 수준의 실력을 가졌다라고는 말이다. 맞는 말인 것 같다 일본어는 하면 할수록 어려운 언어이지만 내가 선택한 전공인만큼 남들에게 가르쳐줄 수 있을 정도로의 실력을 갖고 싶다.


この学生の目の付け方は、非常に「言語学的」です。
日本人だと普通は気づかない部分に目が行ってます。
ははあ、こういう表現が難しいのだな、と再認識させられた文章でした。


大阪人の人情 _ 学生エッセイ43

韓国の日本語学科の学生らが書いた文章を紹介するコーナーです。
今回はその43回目で、女子学生CSRさんの作品です。
(違和感のある部分は、ブログ管理者が適当に直してます。)


<大阪人の人情>
  私はワーキングホリデーで大阪に行ってきた。その中で思った日本人の人情について話そうと思う。日本人の中でも大阪人。普通の日本人と少し異なる性向を持っている大阪人について紹介したい。
  私は日本語科である。しかし日本語には関心がなかった。でも仕方なく専攻の授業を聞くようになって、わたしも知らずうちに日本について知っていった点があった。日本人は冷たい。こんな言葉があった。日本に行く前、私はこの点をとても悩んで恐れた記憶がある。そして日本に行った。
  日本に到着して4日ごろだった。お金がなかった私はすぐアルバイトを見つけなければならない状況だった。できない日本語で電話をして「よろしくお願いします」という言葉だけを繰り返したのだが、店長は「明日2時まで店に来て!」と私に理解やすい日本語で何度も繰り返してくれた。待望の面接の日。日本に到着したばかりで、お金もあまりないし自転車もない。それで歩いて行こうと思い2時間前に出発して步き始めた。いよいよバイトの場所の本町駅に到着したが、日本は私が住んでいた仁川の富平(ブチョン)駅とは違っていた。とても大きくて私とはちがう日本人たちばかり、私は瞬間固まってしまった。電話をかけて店を見つけられないとしゃべったつもりだったが、お互いに言葉が通じなかった。店長は店の前にあるパン屋フレッシュベリーだけを叫ぶだけ。
  電話を切って、周囲の通行人に道を尋ねた。きれいなお姉さんだった。そのお姉さんに事情を身ぶり手ぶりで話したらお姉さんは約束があるにもかかわらず携帯地図を見て私を店先まで連れて行ってくれた。しかし、その時にはすでに2時を過ぎた状態だったので、そのお姉さんにありがとうという言葉を伝えることができなかった。
  それでも私は面接で合格し、家に帰る途中、なんか涙が出た。誰が日本人のことを「冷たい」などと言ったのか!  韓国では地図を広げて、店先までつれて行ってやることも、言語が通じない外国人労働者に仕事を与えることもほとんどないはずだ。「情(じょう)」なら韓国、という言葉が恥ずかしくなった。
  これが私の大阪人に対する第一印象だった。私には本当にあのときの状況がとても切迫していて恐ろしい状況だったが、少なくとも大阪人は私に韓国人よりもっと大きな情でつつんでくれた。それから一年間生活しながら知り合った中で、大阪人は韓国人の血も多く混じっていてとても韓国人と似ているという点がわかり、また日本の地域の中で、韓国人が最も多く住む都市であるということも分かるようになった。性格、顔、人情。大阪人は韓国人と似ていた。
  "情"の深い国が韓国であるということを自負していたのだが、最近の韓国は他人のことだと見向きもせずに無心に通り過ぎることがほとんどだ。私たちはこのような点を自覚して、人と人の間のコミュニケーション、すなわち"人情"について深く考える必要があると思うのだ。


<大阪人の人情>
  나는 오사카로 워킹홀리데이에 다녀왔다. 그중 느낀 일본사람의 인정에 대해 말할까한다.
일본 사람 중에서도 오사카인. 내가생각하기엔 일본인과 조금 다른 성향을 가지고 있는 오사카인에 대해서 소개한다.
  나는 일본어과이다. 하지만 일본어에는 관심이 없었다. 그렇지만 어쩔 수 없이 전공수업을 듣게 되면 나도 모르게 일본에 대해 알아갔던 점이 있었다. 일본인은 차갑다. 이런 말이 있었다. 일본에 가기 전 나는 이점을 무척이나 고민하고 무서워했었던 것으로 기억한다. 그리곤 일본으로 떠났다.
  일본에 도착한 후 4일만이었다. 돈이 없었던 나는 바로 아르바이트를 구하지 않으면 안되는 상황이었다. 하지 못하는 일본어로 전화를 하며 “요로시쿠오네가이시마스”라는 말만 되풀이했지만 인심 좋은 점장님은 “내일 2시까지 가게로와!” 하며 나한테 이해하기 쉬운 일본 단어로 몇 번이나 반복해주어서 알아차렸다. 대망의 면접의 날. 일본에 도착한지 얼마 되지 않았기 때문에 돈과 자전거 둘 다 없었던 나는 걸어가자 라고 생각한 뒤 2시간 전 에 나와 걷기 시작했다. 드디어 아르바이트 장소인 혼마치역에 도착했지만 내가 생각했던 일본은 내가 살던 인천부평역이 아니었다. 무척이나 크고 나와 다른 일본 사람들, 나는 순간 정적했다. 전화를 해서 가게를 찾지 못하겠다고 말했으나 서로 말이 통하지 않았다. 점장님은 가게의 앞에 있는 빵가게 후레시베리 만을 외칠 뿐.
  전화를 끊고 주위 행인에게 길을 물었다. 예쁜 언니였다. 그 언니에게 사정을 손짓발짓으로 말하니 언니는 약속이 있음에도 불구하고 핸드폰지도를 보며 나를 가게 앞까지 데려다주었다. 하지만 그때에는 이미 2시가 넘은 상태여서 그 언니에게 감사하다는 말을 제대로 전하지 못했다. 
  그리고 나는 면접에서 통과하고 집에 돌아가는 중 괜시리 눈물이 났다. 누가 일본인에게 차갑다고 했는가! 한국에서는 지도를 켜가며 가게 앞까지 데려다 주는 일도, 언어가 통하지 않는 외국인노동자에게 일자리를 주는 일도 좀처럼 없다. 정하면 한국이라는 말이 부끄러워졌다.
  이것이 나의 첫 오사카인에 대한 느낌이었다. 나는 정말 저 상황이 무척이나 급박하고 무서운 상황이었지만 적어도 오사카인은 나에게 한국인보다 더 큰 정으로 다가와 주었다. 그리고 일년을 생활하며 알게 된 것 중 오사카인은 한국인의 피도 많이 섞여 무척이나 한국인과 닮았다는 점을 알게 되었고 일본 지역 중 한국인이 가장 많이 사는 도시 라는 것도 알게 되었다. 성격, 얼굴 , 인정 오사카인은 한국인과 닮아있었다.
  “정” 이 깊은 나라가 한국이라는 것을 자부했지만 요즘의 한국은 남의 일이라고 치부해버려 무심하게 지나가는 일이 대부분이다. 우리는 이런 점을 자각하여 사람과 사람간의 베풀수 있는 커뮤니케이션. “인정”에 대하여 깊게 생각할 필요가 있을 것이다.

上杉鷹山(10)

米沢を代表する人といえば、この人「上杉鷹山」。
このブログのカテゴリに「ふるさと」を入れてありますので、
鷹山についてちょっと書くシリーズです。今回はその10回目。
10月15日ブログ上杉鷹山(9) の続きです。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 

 しかし鷹山の主な目的は、領内を全国最大の絹の産地にすることでした。それに必要な資金を工面できる余裕は、すでに乏しい藩庫にはありませんでした。そこで鷹山は、奥向きの費用209両から、さらに50両を切り詰め、それでもって領民のあいだにこの産業を極力推進する資金に当てました。若き藩主は、「わずかな資金でも、長い間つづけるならば巨額に達する」と言います。これを鷹山が50年つづけたところ、自分の始めた数千本の桑株は、しだいに株分けされて、全領内に植える余地がなくなりました。米沢地方の今日があるのも、他のどこにも負けない絹の生産があるのも、往古の藩主の忍耐と慈愛心の賜物であります。米沢産は、今日では市場で最高級品のひとつに数えられています。
 鷹山の領内には、まだ荒地が残っていました。日本のような米の生産国では、豊かな実りは水の灌漑のよいことを意味します。灌漑が不十分であると、大部分の土地は不毛の地として残りがちです。長距離にわたる用水路の建設は、鷹山の藩の乏しい財政では不可能に思われました。鷹山の倹約はけちではありません。「施して浪費するなかれ」が鷹山のモットーでありました。公共の福祉のためになる、と確信した場合には、鷹山は不可能を考えませんでした。鷹山には、資金の不足を補うに足る忍耐力の持ち合わせがありました。昔の日本で行なわれたもっとも大掛かりな土木工事を、二つも企画し完成したのは、このもっとも貧乏な大名でした。
 一つは、28マイルもの距離の高架橋と長くて高い堤による用水路であり、これは水力技術の代表作であります。もう一つは、堅い岩盤に1200フィートのトンネルを掘ることにより、大きな水流を変える工事でした。後者の事業は、鷹山治世の20年間を要し、鷹山が領内に貢献した最大の仕事でした。
 鷹山の家臣に黒井忠寄という名の、のっそりとした無口な男がいました。鷹山がその才能を見いだすまでは、無用者扱いを受けていました。その男が、実は、たぐい稀な算術の才能の持ち主であったのです。黒井は、自分の粗末な器具を用いて、領内の精密な測量をして、周囲の人々からは異常としか思われない工事の計画を立てました。その最初の一つは完成しましたが、次の仕事に従事している最中になくなりました。しかし計画は黒井が予定したとおりに継続されました。       
                              ここまで上杉鷹山(10)。『代表的日本人』(内村鑑三)より

韓国の肥やしになれ

ドイツ出身の神父と修道女の方が、
韓国での奉仕活動が認められ、ドイツ大使館において独逸十字勲章を受賞したという話題です。
愛に満ちた人々は、世界のあらゆるとことにいらっしゃいますね。
心あたたまる内容だったので、ご紹介します。

♦ここから引用♦           1018하신부와수도녀1

ソウル城北洞(ソンブクドン)の在韓ドイツ大使館邸で10月17日に特別な勲章の授与式が行われた。勲章を受賞した人は、ドイツ出身のアントン・トゥラウノ(92・韓国名、河アントニオ・)神父とマリア・ベルティルデ修道女(77)。50年間、韓国で疎外された人々を助けてきた功労が認められ、同日、ドイツ十字功労勲章を受賞した。ドイツ政府が自国の発展や対外広報などに大きな功労をたてた民間人に授与する勲章だ。

韓国で人生の大半を送った神父とベルティルテ修道女は、お互いに話す時も母国語の代わりに韓国語を用いる。90歳を超えた神父の韓国語には、ドイツ語のイントネーションと釜山(プサン)方言が混ざっていた。

二人にとって韓国は未知の地だった。
ベルティルテ修道女は、"知ってることばは、'静かな朝の国'  という表現だけだった" と語った。
彼らを韓国に導いたのは戦争だった。
河神父は "第2次世界大戦の時、ドイツ軍通信兵して参戦し、ソ連軍に捕まって4年間捕虜生活をした"、"分断された地で、平和の使徒になりたかった" と語る。

河神父とベルティルテ修道女はそれぞれ1958年、1967年に韓国の地を踏んだ。河神父は "肥料がたくさん詰まれた貨物船に7週間乗って釜山港に到着した"、"韓国のための肥料になれという神の思し召しだと信じた"  と言う。河の名前から由来した自分の本来の苗字 'トゥラウノ' に合わせて '河' を自分の苗字とした。一番最初に覚えた韓国語が 'アイゴー、ヂュッケッタ(ほんと、死にそう)' だったという。それくらい大変な時代だった。戦争孤児、バスの車掌、貧民や障害者を支援し、彼らとともに苦痛に耐えた。河神父は、戦後バラックがうっそうとしていた 'ヂョッキ(釜山市南区戡蛮洞一帯)'に住み着いた。"ヂョッキは、逆に読めば'奇跡'でした(韓国語ではそうなる)。 いつも信者たちに '苦しくても奇跡が起きるように努力しよう'と言ってたんです" 。

米軍が援助したトウモロコシや小麦粉を家々に配ることから始めた。障害がある戦争孤児7人もの司祭館に連れてきて、わが子のように育てた。人びとは、このような姿に "天使が歩く" と表現した。私財をはたいてもとうていお金が足りなかった。河神父とベルティルテ修道女は、ドイツの知人たちに助けを要請する手紙を数百通書いた。母国を回りながら募金活動にも乗り出した。一人息子を異郷の地に送ることになった神父の母親は、'良いことに使って' と全財産を処分して送ってくれた。おかげで河神父は、教育院 '愛の家'、韓独女子実業学校(現釜山文化女子高)、無料助産院を、ベルティルテ修道女は、釜山初の無料幼稚園を立てることができた。これらの施設を訪れた韓国人は数万人に上る。

交通事故で片足が少し不自由な河神父は、1974年から毎年5月に臨津閣で統一を念願する祈祷会を開いている。臨津閣(イムジンガク)近くに南北統一を念願する聖堂も建てている。"私の最後の願いは、北朝鮮の人々を助けることです。その願いが叶うまで、この地に住みたいと思います"。

河下神父は叙勲式の終わりに受賞の感想に代えたいとしながら、' ウリエ ソウォヌン トンギル(私たちの願いは統一) ' を歌い始めた。彼が " 私たち~の " まで歌うと、大使館邸に集まった50人余り全員が、彼に続いて統一の歌を合唱した。

出典 朝鮮日報;http://premium.chosun.com/site/data/html_dir/2014/10/18/2014101800099.html?csmain

♦ここまで引用♦

本文中、ベルティルテ修道女のことばとして、知ってることばは「静かな朝の国」という表現、という部分がありますが、韓国を象徴することばとしてこの「コヨハン アッチメ ナラ(静かな朝の国)」というフレーズがあります。日本の皆さんはご存知かどうかわかりませんが、77歳になる修道女のベルティルテさんは、昔ドイツから韓国へやってくるときに、この表現を知っていたということですから、韓国に関してかなり勉強してきたんだな、ということが察せられます。

ちなみに本文中、「河アントニオ」は、「ハ・アントニオ」という発音となります。この河神父が最初に覚えた韓国語が「アイゴー ヂュッケッタ」(まったく死にそう)という表現というのがおもしろいです。これはいまでも韓国の人がよく使う表現です。当時はことばそのものの意味で「死にそう」だったんだと思います。今は、冗談的にあるいは軽いノリで使いますね。日本語でも「死にそう」は、よく使いますよね。意味を考えるとかなりシリアスですが、ことばだけのノリで使っているわけです。

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treenamu

Author:treenamu
韓国在住の日本人で、山歩きやサッカー、リフティングなどが好きです。小説・随筆なども書いてます。鴨長明、ヘッセ、バルザック、モーム、チャンドラーなどが好きです。スローライフがモットーです。

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