天安からアンニョン

日々の思いや韓流情報などをエッセイ風に書きます。韓国からの発信です。

床屋 _ 筆者のエッセイ0004

 わたしたちの新婚生活は、ソウルのシフンドン( 始興洞) というところで出発した(1989年頃)。最寄りのバス停でバスを降りてから、伝統的な市場(在来市場という)の並ぶ道を八分ぐらい歩いていくとわが家があった。
 バスを降りてまっすぐ家に帰る。はじめのころは寄り道をしたことがないから、周辺にどんな店があるか、何が売ってあるのかよくわからなかった。そんなある日、髪が伸びたので散髪することにした。バスを降りてもどこに床屋があるかわからなかったが、いつも歩いていく道沿いに床屋のマークのぐるぐる回る広告塔があるじゃないか。こんなところにあったのか。探さなくてもよかったので、わたしは喜んですぐさまその店に入った。
 床屋といえば普通は一階にあるものだ。しかしそこは店が地下にあった。入り口から地下に続く階段を降りながらなんとなく「変だな」、とは思った。でもスーパーが地下にあることもけっこうあったので、それほど疑いの念はおこらなかった。

 地下一階。

 薄暗いなかに散髪の椅子が見えるのだが、ひとつひとつ間仕切りのようなもので仕切られていた。こりゃただの床屋ではないな、とそのときに思った。が、案内のおにいさんが「さあ、こちらへ」と強く手を引いて誘うのでそれに従うしかなかった。椅子に座って三〇秒ぐらい待っていたろうか。そのあいだにも、ミニスカートのアガシ(お嬢さん)があっちこっちいったりきたりするのが見え、これはたいへんなことになったなと思った。
 話では聞いたことがあった。「風俗的」なことを売り物にする床屋があるということだったが、まさに今わたしが座っている床屋がそれだったのだ。逃げよう、なんとかすぐ逃げよう。そう心に言いながらも行動が起らなかった。
 と、男性がはさみを持ってわたしの後ろに立つ。散髪がはじまった。だまっているしかなかった。ヘアスタイルについてどんな注文を言ったのか覚えていない。それどころではなかった。どうやってここを逃げるか。それしか頭のなかになかったのだから。
 散髪がいよいよおわりに近づいている。さあ、逃げるならいまだ。なんといって逃げようか。逃げたらはさみやナイフで脅されやしまいか。有り金を全部置いていけ、などと言われはしまいか。100ウォンでもわたしにとっては大切なお金だ。こんなところでむざむざ巻き上げられては男がすたる。さまざまの妄想をしていると、散髪をした男が何か言った。が、わたしはその韓国語が何と言っているのか聞き取れなかった。おそらく「さあ、次のコースにまいりましょうか」とでも言ったのだろう。なんとなく想像はできたが、わたしはとにかく逃げ出すことしか考えていなかった。男の声のタイミングに合わせるようにしてわたしはガバと跳ね起き、「テッスムニダ」と言った。つまり「いいです」「何も必要ないです」「大丈夫です」ということだ。言いながら500ウォンだったと思うが、その金をやつの手にねじこむようにして押し込むなり、
わたしは後ろも振り向かずいちもくさんに階段を上がって表に出た。
 ひゅー。
 なんとか助かった。金も巻き上げられずに済んだ。あのあと、どんなコースが準備されていたのか、今となっては知るよしもないが、後学のために知っておいてもよかったかなと、だいぶたってから思ったものだった。

(※)床屋:マークは日本と同じで、くるくる回るつっぽう状の看板。25年前当時は、男性用理髪店でフウゾク的な商売もやっているのがときおり見られた。いまでもそういうところがあるかどうかは詳しくはわからないが、おそらく今は取り締まりも厳しくなってその手の店はすべてなくなってしまったのではないだろうか。すくなくとも表向き「床屋兼フウゾク」という店は見られなくなった。ちょっぴり寂しい気がしないでもないが。(『おしょうしな韓国より


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Author:treenamu
韓国在住の日本人で、山歩きやサッカー、リフティングなどが好きです。小説・随筆なども書いてます。鴨長明、ヘッセ、バルザック、モーム、チャンドラーなどが好きです。スローライフがモットーです。

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